ほな、おおきに(ブログ)

2012年7月2日(月曜日)

第6回れきしくらぶ 今回は信長編~

6月最終の土曜日、今年に入って初めてのれきしくらぶ野外活動です。

 

今回は子供達にも人気の信長編!

 

まずは、信長の戦国時代の京都はどんなようすだったか

をイメージするため、「ひと・まち交流館」へ。

ここは、いつも五色百人一首の練習会があるところですが

今回は地下にある「洛中洛外図屏風」を見にきました。

 

1階のパネル展示では、平安時代から明治にいたるまでの

京都の町の盛衰をわかりやすく説明してあります。

戦国時代の京都はかなりすたれていて、家のある場所は北のほうと

南のほうにわかれて固まっていて、平安京の時代とは町の規模が

全然ちがいます。

 

そんな戦国時代、信長が上杉謙信に送った(ワイロ?)洛中洛外図屏風には

庶民の家の屋根は板に石がのってるだけの粗末なものでした。

 

 

戦国時代の京都をイメージできたところで、次は本能寺・・・

という予定やったのですが、前々日の新聞に「旧二条城跡」の発掘現場の

現地説明会があるとの情報があり、予定変更してそちらに向かいました。

 

「旧二条城」は、室町幕府最後の将軍足利義昭のために織田信長が作った

お城です。

なんとタイムリーな!

前部長のT緒ちゃんもちゃんとチェックしていて、学校で娘に

「いきたいな」とゆってたそうです。

 

現場に到着すると、たくさんの見学者で、すでに説明が始まっていました。

旧二条城跡

 

かなり深い濠であったことはわかりますが、参加者の皆さんが次々に質問

されている内容なんかは、私にはさっぱり・・・(~_~;)

 

いただいた資料から、外郭濠推定ラインの西端は、京都府庁前の新町通りになっています。

「ひと・まち交流館」でみた戦国時代の京都の地図では、北の町と南の町をつなぐ

メインストリートは室町通りのようでした。

ということは、北の町と南の町の真ん中にドンと二条城が建っているかたちになります。

なにか意図があったのでしょうか。

 

しかし、この場所(出水~丸太町)でなぜ「二条城」と名がつくんでしょうね。

 

 

子供達は発掘現場は初めてですが、どんな感想だったでしょう(#^.^#)

 

 

 

さて次は、信長が明智光秀に焼き討ちにあった、本能寺跡にバスで移動。

 

近くの小さな稲荷神社の境内で、そのときの様子を資料を読んでイメージしました。

稲荷神社

 

少ないお供しかつれていなかった信長は、

外が騒がしいのはお供のケンカと思っていたのが

じつは明智勢に攻められたとわかり覚悟をきめ、

弓で応戦、しかし弓の弦がきれたので槍で奮闘するも

ついにはあきらめ、自分の首をとられたくないため

寺の奥の部屋にこもり自害した。

 

 

ドラマによくでてくるシーンなので、イメージしやすいですね(^.^)

 

 

 

稲荷神社を出て少し東へ行くと、「本能寺跡」の新しい石碑がたっていました。

新石碑

 

これは知らんかった。

前のは・・・というと、ちゃんともう少し東に残っていました。

旧石碑

 

「本能寺跡」の石碑に「本能寺」の「能」という寺は度重なる火事のため「ヒ」「ヒ」と2回

「火」の字があるのをさけて「去」のような字に変えられたという逸話が石碑に書いてあったんですが・・・

近くの壁にはってある消防団のポスターをみて

前部長T緒ちゃん「消防団やのに、あかんやん~~」

ってするどいツッコミいれてはりました<(`^´)>

ポスター

 

 

突然ですが、続きはまた(^^)/

 

 

 

 

 

1

↑ページトップへ

Get Adobe Flash player